本名:猪木寛至(いのきかんじ)
1943年2月20日、神奈川県横浜市鶴見区出身。
家業は石炭問屋を営んでいたが戦後のエネルギー需要が石炭から石油にシフトしたのを受け、13歳の時に一家でブラジルに移住する。
早朝5時からのコーヒー豆収穫を行いながら、砲丸投げ競技で頭角を顕し、地元大会で優勝して話題となる。
格闘家として
猪木は自身の最強を証明するため、格闘技の英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。
中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。ゴングと共に、タックル、投げ技、関節技などを禁止された猪木はアリの足元にスライディングをして、アリを転倒させる作戦に出たが失敗。それから猪木は幾度となくリングの上に寝転がり、アリの足を集中的に蹴った。そんな猪木の攻め方に、少し苛立ちを感じたアリは猪木に立つように挑発。猪木も何度か立ち上がりはしたものの、またアリの足を狙いに寝転がった。 猪木の蹴りによるダメージは確実にアリに蓄積していたが、試合中では足の痛みを晒け出すことなく常に軽やかなステップを踏み続けた。 互いに決定打を出すことはできず3分15ラウンドを戦い抜き、引き分けという結果に終わった。試合後、猪木のキックによりアリの太ももは激しく腫れ上がり、膝の裏に血栓症を患い、5年後の現役引退の大きな要因になった。
政治家として
1989年、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、史上初のレスラー出身の国会議員となった。1990年8月2日、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸戦争)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分にする。猪木は12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。
2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同会内最多得票)で当選し、18年ぶりの国政復帰を果たした。
アントニオ猪木 年表
- 1960年4月
- プラジル遠征に訪れた日本プロレスの力道山と面会し、スカウトされて日本へ帰国する。
- 1960年4月11日
- 猪木の日本プロレス入門の記者会見が行われる。馬場正平(後のジャイアント馬場)との同時入門会見であった。
- 1962年11月
- リングネームを「アントニオ猪木」とする。
- 1964年
- 米国武者修行に出発。ロサンゼルス、メンフィス、ナッシュビルなどを転戦し世界タッグ王座を獲得。
- 1966年4月23日
- 米国より凱旋帰国した猪木は羽田空港にて新団体「東京プロレス」への参戦を表明。
- 1966年10月12日
- 東京プロレスが蔵前国技館にて旗揚げ戦。猪木は団体のエースとしてジョニー・バレンタインと戦う。
本戦は当時では珍しかったKOかギブアップのみの決着で3カウント無しのルールだった。
この対戦にスポーツマスコミは史上初めて「デスマッチ」という表現を用いた。
猪木のファイトは観客を魅了し、リングアウト勝ちを収め、一夜にして「アントニオ猪木」の名は日本プロスポーツ界に轟いた。 - 1966年12月19日
- 東京体育館大会の開催を最後に東京プロレスは単独開催を中止。
- 1967年1月5日
- アントニオ猪木を始めとする東京プロレス勢は「国際プロレス」の旗揚げシリーズに協力参戦する。
- 1967年4月6日
- 日本プロレスはアントニオ猪木の団体復帰を発表する。
- 1967年5月5日
- 鳥取市体育館大会において、3年2カ月ぶりに日本プロレスのリングに復帰を果たす。
- 1967年5月12日
- 岐阜市民センターでジャイアント馬場とのタッグが実現。世に言う「BI砲」誕生。
- 1967年10月31日
- 大阪府立体育館にてBI砲がインタ・タッグ王座を獲得。
- 1969年5月16日
- 東京体育館にて開催された「第11回ワールド・リーグ戦決勝」にて初公開の技「卍固め」にて優勝を果たし、日本プロレスのトップに立つ。
- 1972年1月26日
- 理想の団体を目指して京王プラザホテルにて「新日本プロレス」の設立を発表。代表取締役社長となる。
- 1972年3月6日
- 大田区体育館にて新日本プロレス旗揚げ戦。
- 1972年7月7日
- 東京港区青山に新日本プロレスの事務所がオープン。
- 1974年12月13日
- 羽田空港より新日本プロレスが初のブラジル遠征に出発。10日間に及ぶ日程で、多くの経済人も同行した。
- 1976年6月26日
- 日本武道館にてアントニオ猪木 vs モハメド・アリの世紀の対決が実現。世界中がこの一戦に注目した。
結果は引分となったが、後年、この試合こそがMMAの源流だと評価される。 - 1989年2月6日
- 有楽町日本特派員協会にてアントニオ猪木は会見に臨み、ソ連国家スポーツ委員会と新日本プロレスの提携を発表。
ベルリンの壁が崩壊する半年前に、格闘技の世界での日ソ交流を実現した。 - 1989年4月24日
- 新日本プロレスが東京ドームに初進出。
- 1989年6月15日
- 新日本プロレスの社長を退任し、会長に就任する。
- 1989年6月20日
- 港区北青山に「スポーツ平和党」本部を開設。参議院議員選挙に出馬を正式表明。
- 1989年7月24日
- 第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選を果たす。
- 1989年10月14日
- 福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。
騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院する。 - 1989年10月25日
- 統一会派を組んだ民社党の配慮により、頭に包帯をし車椅子に乗った状態で初めて質問に立つ。
- 1990年8月2日
- イラクのクウェートに侵攻の影響により、クウェートにいた日本人41人が事実上の人質としてイラクヘ連行・国外移動禁止処分とされる。
- 1990年11月30日
- アントニオ猪木はトルコ航空のチャーター便により、イラク人質の家族らとイラクへ向う。
- 1990年12月2、3日
- アントニオ猪木は戦時下のイラク、バグダッド「アル・シャープ・スタジアム」にて「スポーツと平和の祭典」を開催。
- 1990年12月7日
- イラク人質全員の解放が決定される。
- 1995年4月28、29日
- 北朝鮮の「メーデースタジアム」にて「平和のための平壌体育文化祝典」を開催。2日間で約38万人を動員する。
- 1998年4月4日
- 東京ドームにて現役選手を引退。
- 2002年8月28日
- アントニオ猪木をプロデューサーに「Dynamite!」が格闘技大会として史上初の国立競技場に進出する。
- 2010年2月1日
- 日本人として初めて米国WWEのプロレス殿堂入りを果たした。
- 2010年9月15日
- 北朝鮮より親善勲章第1級勲章が授与される。
- 2012年11月20日
- キューバ友好勲章を授与される。
- 2013年6月5日
- 日本維新の会より参議院議員選挙に出馬表明。
- 2013年7月21日
- 第23回参議院議員通常選挙で日本維新の会で比例区最多得票数である35万6606票を集めて当選。
国政復帰を果たす。 - 2014年7月9日
- アントニオ猪木は自らを含め6名の国会議員団を組織し、北朝鮮を訪問。
朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党の姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った。 - 2014年8月
- 日本維新の会分党に際して、「次世代の党」に参加。
党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任する。 - 2014年12月12日
- 次世代の党を離党。
- 2015年1月8日
- 「日本を元気にする会」の設立と同時に同党に参加、同党最高顧問に就任。
- 2015年1月21日
- ノーベル平和賞受賞者、マララ・ユスフザイ氏とイギリスで面会。
- 2015年3月1日
- カンボジア五輪委員会より、五輪親善大使に任命される。